双極性障害(躁鬱病) 後編
今日の私と冬至
嬉しいときは悲しいとき
境界性パーソナリティ障害(ボーダー)
神田沙也加さんの訃報
ニュースを知った瞬間、全身に鳥肌が立ち、一瞬息の仕方もわからなくなりました。
日本中がショックを受けるほど有名な方だからこそ、こうして改めて考えさせられますが、
今もどこかでこの寒空の下、みずから命を絶ってしまう人がいるのです。
私もかつて、それを望んだ一人でした。
そして、もしかすると今後も頭をよぎることがあるかもしれない。
なぜなら、鬱病や双極性障害は「こころの病気」ではなく「脳の病気」と考えられているから。
そしてそれは、多少なりとも「遺伝」してしまうから。
(現在私が通っているクリニックでの説明より)
それを断ち切るために、私は治療を続けながら、こうしてこの病気を発信していこうと決めたのです。
自分と、自分と同じ葛藤を抱く人が、みずから命を落とさなくて済むように…
娘がいる以上、私は責任を持って生きる。
生きるというのは、死なないということ。
でも、この病気は、脳がそうさせてくれないこともあります。
生まれつきの脳の作りは、簡単に自分で変えられるものではないのです。
目の見えない人、耳の聞こえない人、脚のない人のように、明らかにわかる病気ではないけれど、生きづらいハンデを背負っているのは同じ。
「こう考えたほうがいいよ」と言われても、単純にその思考になれないのがこの病気の苦しいところ。
母も、その苦しさを背負って、この世からいなくなってしまいました。
その遺伝子を持ち合わせているのが、私です。
いずれにせよ、いまだにこの病気については、私自身も受け入れることができずにいます。
ただ、この病気のおかげで知れたこと、経験できたことがあるのも事実です。
神田沙也加さん、
綺麗で、謙虚で、才能があって、ご両親譲りのオーラがあって、ご両親にはない儚さがあって…
本当に、素敵な方でした。
本当に「アナ」そのものな方でした。
やっと、楽になれましたか?
もう、何も抱えずに、ゆっくり休んでください。
たくさんの人の心を満たしてくれて、ありがとうございます。
ご冥福をお祈りいたします。
双極性障害(躁鬱病) 前編
(スマホのメモ帳に残していたこと)
自己顕示欲と承認欲求の塊の私が、この度ブログを始めました。
病気を知ってもらうために、
同じ境遇の人と一緒に前を向けるように、
自分自身を見つめ直せるように、
少しずつ書いていこうと思います。
初ブログはかなり長くなっておりますが、お付き合いください。
私がこの病気を発症したのは、16歳の頃。
父の転勤で海外生活をしたり、習い事や塾通いでそこそこの成績だった義務教育時代。
高校は、東大生・京大生も輩出している、地元の有名進学校へ入学しました。
自立と自由がモットーだった高校は、明るく華やかで、ガリ勉とはかけ離れた校風でしたが、私はそこで挫折を知るのです。
夢も目標もなかったその頃は、急に周りが自分よりできる子ばかり、成績は常に最下位を低迷、当たり前に100点をとれていたテストは0点をとらないことに必死になり、急に自分がいるべき場所ではないと思うようになりました。
次第に学校から足は遠のき、地元のやんちゃな友だちと連むようになると、夜遊びや非行に走り始めます。
家にいる時間はほとんど寝たきり、飲まず食わず、トイレにもいかない日が続いていました。
とはいえ、丁寧で器の大きい両親のおかげで、保育園のボランティア、カフェのアルバイト、再びの海外生活などを経験させてもらい、月日を重ねて徐々に本来の自分のエネルギーを取り戻していきました。
通院(投薬)治療とカウンセリングも続けて、無事大検を取り専門学校に入学するまで、約4年。
健康な時期もあったけど、大半をベッドの上で過ごした4年間。
これが私の最初の鬱期でした。
二度目の鬱期は、24歳の頃にやってきます。
闘病中の母と、3年ぶりに同居することになったのですが、これがなかなかに困難でした。
新卒で勤めた職場は厳しく、疲労困憊で帰宅する私には、弱っている母と向き合う余裕がありませんでした。
母は3度の大きな手術を経て後遺症が残ってしまったので、娘のために何もできず、葛藤して苦しんでいました。
その頃はお互いの心が極限で、夜になると包丁を振りかざし合っていたことも鮮明に思い出されます。
そしてその夏、ついに母はみずから命を絶ってしまうのです。
私にとって一番完璧な、最高の母親は、病によって心身共に蝕まれていました。
家族全員が自分自身を責め、大好きだった母が突然いなくなってしまったことを認められず、悲しみのどん底に落ちます。
それぞれが離れたところに暮らしていたため、家族もバラバラになっていくように感じました。
そこから数年間、私は夜の世界に身を投じて、二度目の鬱期を過ごします。
三度目の鬱期は、29歳。
無事に昼夜二足の草鞋から、昼の保育士一本になり、最愛の夫と国際結婚、そして娘を妊娠出産して、幸せ絶頂だった日々も束の間。
3年間の辛抱ののち、夫と離婚することになり、依存気質だった私は一気に転落の道を辿ります。
借金、ギャンブル、虚言癖、DV…
他人が聞くと最低な事実でも、家事育児に協力的で、娘を愛していて、何よりこんな私を認めてくれる夫は、私にとって唯一無二の存在でした。
その頃ちょうど父親も再婚し、弟も結婚したので、家族には迷惑をかけまいと、私は夫と何があっても離れない覚悟でいたのです。
何より娘はパパが大好きでした。
娘からパパを奪うことは罪だと思っていました。
仮面夫婦を装い、それでも、夫を愛していたのは事実だったので、結婚生活は辛くても笑顔の多い日々でした。
ところがある日、知らず知らずストレスが溢れかえった私は、娘の保育園で突然倒れ、何も変わらない夫に限界を感じ、離婚を決断することになります。
絶対に、なにがなんでも避けたい決断でしたが、これ以上彼にしがみつくことは、自分も娘も守れないことを知ったのです。
最終的には、松本に住む弟が駆けつけてくれて、静かに夫を追い出してくれました。
三度の大きな鬱の間は「躁」と「寛解」と「プチ鬱」を繰り返していたわけですが、時に「躁」は鬱よりも恐ろしいことを知ります。
高校時代の躁期には、無免許で高速を飛ばし、
専門時代の躁期には、一晩で何十万も浪費し、
直近の躁期では、1日の平均睡眠が2〜3時間になり、会ったこともない人に突然飛行機で会いに行ったりする…
そんな突発的で衝動的な行動を起こしていました。
自傷行為やOD、自殺未遂があったのも躁期です。
私の場合で現れた躁と鬱には、以下のような症状がありました。
▼躁状態
・1日の睡眠時間が平均2〜3時間でも疲れを感じず、毎日仕事もこなす
・1日何時間もSNSに費やして発信を繰り返したり、何時間も動画配信をしたりする
・一度に何人もの相手とLINEや通話でやりとりする
・自分の過去や将来の夢を不特定多数に必要以上に話す
・突然会ったこともない人に飛行機で他県まで会いに行く
・無◯許で高速を暴走(高校時代)
・1日で1ヶ月分のお給料以上の浪費
・異性関係が荒れる
▼鬱状態
・仕事に行けなくなる
・1日中横になったまま何もしない
・食べない、飲まない、トイレにも行かない
・夜眠れなくなる
・昼間に4時間以上寝てしまう
・お酒の飲みすぎ
・飲みすぎた後は、吐くほど食べたり、吐くほど喫煙したりする
・動悸やめまい、息苦しさ、震えを感じる
・不安と焦燥感でパニックになる
・家族友だち職場に申し訳なくなって消えたくなる
・死にたくなる
このような状態を数年おきに交互に繰り返していたのですが、最近は1ヶ月の間でも躁鬱が入れ替わり、身も心も混乱…
生活に支障をきたすレベルのラピッドサイクルに突入しているのです。
(後編へつづく)